二つの願いと銀の月


 遠くから笛の音が聞こえて、王女はふと顔を上げた。
 頭の痛くなるような経済統計のことはしばし忘れて、その笛の音に耳を傾ける。
 一本の笛から奏でられる単旋律。いつものことだけれど、伴奏すらついていない。彼は滅多に他人と競演することがない。
 ずっと見ていたから気付いてしまった。彼は誰も近づけない。演奏だけでなく、人との会話でも。丁寧でやわらかな物腰は、そのまま強烈で他人行儀な拒絶の態度だ。
 ――寂しい人、なのだと思う。
 いつでも、誰といても。笑って誰かの話に耳を傾けているときも、意外なほど表に出す機会が少ない彼自身の意見を口にしているときも。彼は真実を見せない。
 一線を引かれていることがわかってしまう。初めて会ったときから変わらない。遠い遠い距離を、カインの授業に付き添っているときも、一緒に出かけているときにも感じる。いつでも。
 近づきたいと思ったのは、いつからだっただろう。
 羽ペンを机の上に放り出して窓の外を眺めながら、王女はぼんやりと思いを馳せた。
 ――きっと初めて出会ったときだ。
 初めて彼の笛を聞いて言葉を交わして、そして彼の柔らかな物腰にふと突き放したような冷たさを感じたとき。
 窓の外の日差しは、ふと気付けばもうかなり柔らかくなっている。もうすぐ冬が終わる。そして春が。
 ゆっくりと息をついた。
 花たちの堅いつぼみがほころぶように、あの人の拒絶が和らぐことなどあるのだろうか。真実を見せてもらえる日が来ることなどあるのだろうか。
 窓から室内へ視線を戻す。ただ待っているだけでは、何も変わらないのではないかと思う。ならば何ができるだろう。貴婦人たちの賞賛の言葉にも、ただ穏やかな微笑だけを返して、心など動かされていないだろうあの人に。
 経済統計を行き過ぎた王女の視線は、予定表を兼ねた暦の上を滑る。カインの勉学や視察の予定が記された日付の中に、一つだけ違う色のインクで書かれた予定が目立っている。
 三月六日――リオウの誕生日だ。

 カインと二人で港市場に視察に来た王女は、とある店の前で立ち止まっていた。カインはその隣で、目の前の商品がどこから運ばれてきたのか、その相場はどれほどのものなのか、商品を買っていく客はどのような立場や地位の者なのかを、をじっくりと観察している。本当は王女が教えるべきなのかもしれないが、カインが自分の力でこの国の現状を理解しようとしているのなら余計な口出しはしたくないと、王女はそう思っていた。
 けれど王女が立ち止まっていたのは、決してそれだけが理由ではない。
 彼女は魅入られていたのだ。店先に展示されたガラスの箱。そこに収められた、遙か東の国から来たという短剣の、澄みきった鋭さと美しさに。
 華美な装飾は一切ない、白木の柄をつけただけのものだけれど、その短剣は美しかった。わずかに反り返った刃先が独特の雰囲気を醸し出していて、それがこの国のものではないことを如実に物語っている。
「それは遙か東の国から運ばれてきた剣なんです」
 じっと見つめている王女に気付いた店主が、店の奥から出てきて言った。
「切れ味も良いですが、実用よりお守りとして買って行かれる方が多いですね」
 恰幅の良い中年の店主は、そう言ってガラスケースの鍵を開ける。
「そうなのですか?」
 王女は取り出された短剣の刃に視線を落としながら尋ねた。
「ええ。あちらの国では、この剣が人智を越えた病魔や災厄から持ち主を守ると言われているらしいんですよ。その刃を見ているとなんだか本当のことのような気がしてきませんか?」
「そう……ですね」
 曇り一つない、鋭い切っ先。
 人を傷つけるために生み出されたはずの武器でありながら、病魔や災厄を退け人を守るものだと言われるのはなぜだろう。夜空にかかる細い月のようないっそ透明なほどの輝きが、その鋭さそのものが美しいからだろうか。悲しいほどに。
「姉上?」
 刃に引き込まれるように思考に沈んでいた王女は、カインの声ではっと現実に引き戻された。
「それを、買うの?」
「え、ええ」
「ありがとうございます。贈り物ですか?」
「あ……」
 すかさず店主にたたみかけられて、王女はただ反射的に答えてしまっただけだと言い出せなくなる。
「……はい」
「少々お待ち下さい。包んで参りますので」
 店主は満足そうに頷き、短剣を柄と同じ白木の鞘に収め、店の奥へ入っていった。彼の背中を見送りながら、王女は考え込む。
 鋭い刃を見つめながら、思い出していたのはリオウのことだった。リオウの容姿があの剣の生まれた土地である東洋の人々に近いから、というだけではなく。どこか――なぜかはわからないけれど、どこかが似ているような気がする。言葉では言い表せない、ふとした瞬間に見せる雰囲気の片鱗のようなものが。
 王女は首を振って、自分でも理解しきれない感傷を振り払った。
 きっと、そんなに難しく考え込むようなことではないのだろう。ただ東から来たという短剣に、東洋系の顔立ちをした彼のことを思い出しただけ。誕生日が近い彼に何か贈り物をしたいと考えていたから、贈り物としては無難なものであるお守りに注意を引かれただけ。ただ、それだけのことだ。――きっと。

 ◆ ◆ ◆

 生まれて初めて貰った誕生日の贈り物は、暗殺の依頼だった。
 規定の年齢に達したその日、一族の長老が直々に最初の暗殺命令を下してきた。もう戻れない、どこにも行けないと絶望し、無力感に苛まれながら命令を実行に移した。
 だからリオウにとって、誕生日はあまり楽しい日ではなかった。良い思い出などない。誰かに祝って欲しいとも思わない。それなのに、どこから情報が広まったのやら、朝から次々に舞い込んでくる贈り物にリオウは内心うんざりしていた。誕生日の何がめでたいのか、理屈はいくつか知っているが実感は何一つ湧かない。ただいつもより嬉しそうな笑顔を浮かべて、何度も礼を言わねばならないのがわずらわしかった。
 繰り返し贈られる社交辞令と花や食器や異国の置物。本当に欲しいものはその中にはない。
 もっとも、相手を喜ばせようと意図されたものであるだけ、一族の下にいた頃よりはマシなのかもしれないが。
 貴婦人たちのおしゃべりからようやく解放されたリオウは、他の誰かに捕まってはかなわないとばかり、中庭の半ば蔦に埋もれた東屋に逃げ込んだ。

 東屋には先客がいた。白木の鞘から半分引き抜いた短剣を、ただじっと見つめる王女が。
「姫……」
 思い詰めたようなどこか翳のある横顔に、リオウは思わず呆然と立ち尽くす。
「リオウ? どうかしたのですか?」
 剣を鞘に戻し、顔を上げてこちらを見た王女の表情からは、先程見えた翳は消え失せていた。
「あ、いえ。他に人がいるとは思わなかったので」
 驚きすぎたことをごまかすように、リオウは苦笑を口の端に載せる。
「すみません、お一人になりたかったのでは?」
 こんな隅の東屋にいるということは、恐らくその通りなのだろうが。
「……ええ。少し、考えたいことがあって。でも、ちょうど良かった」
 王女は立ち上がり、微笑みながらリオウに歩み寄った。
「これを」
「え?」
 笑顔で差し出された短剣を、リオウは不思議に思いながら見下ろす。
「お誕生日、おめでとうございます」
 リオウは短剣を受け取り、先程姫がそうしていたように刃を半分引き抜いて眺めた。
 この国のものではないのだろう。細身で刃先の反り返った、独特の刃紋を持った短剣。冴え冴えとした輝きは、明らかに何かを傷つけるための鋭さを表していた。確かに自分にはふさわしいかもしれない。けれど、目の前の姫君から差し出される物としてはふさわしいと思えない。
 ――これは、武器だ。
「それは、お守りなんです」
 静かな声に、リオウははっと顔を上げる。
 まさか思考を読んで反論したわけではないのだろうが、余りにもタイミングの良い一言に一瞬動揺しかけた。彼女の目の前で刃の輝きに見入ってしまうなど不用意だったかもしれない。怪しまれなかっただろうか。
「人智を越えた病魔や災厄から持ち主を守るのだと、お店の方がおっしゃっていました」
 リオウの内心の焦りには気付かない様子で、王女は微笑みながら説明を続ける。
「護身用というわけでもなくて、ただそこにあるだけで持ち主を守るものなのだと」
 王女は言葉を切り、そっと上目遣いでリオウの瞳を覗き込んだ。
「受け取っていただけますか? リオウにはいつもお世話になっているから、この機会にお礼をしたくて」
「……ありがとうございます。このようなたいそうなものを頂いて、身に余る光栄です」
 装飾こそ質素だが、刃を見れば上質な品であることはわかる。異国から運び込まれてきた物ならなおさら、決して安価な物ではないはずだ。
「そんなに恐縮しないでください。子どもじみた考えだけれど、本当にただお守りになればと思ったのです。災厄はいつ降りかかるかわからないから……」
 彼女はもしかしたら、自分の両親のことを思い浮かべていたのかもしれない。弟も記憶を失っている今、彼女が頼れる者は決して多くはない。その中でも、リオウは政治の内情に気を使うことなく悩みを相談できる相手として、彼女から比較的頼りにされている方だった。
 頼りにしている人間がいなくなってしまう可能性に、彼女は臆病になっているに違いない。余りにも立て続けに、自らの拠り所を失ってしまったのだから。
 だからなのだろう。だから彼女は、誕生日の贈り物に『お守り』を選んだ。誰かを守る力を持たない彼女が、頼みにしている相手にできる精一杯の『守り』。気休めにしかならない、儚い願い。
「ありがとうございます。大切にいたします」
 礼儀正しい微笑を浮かべて剣を鞘に戻しながら、リオウはふと自分が苛立っていることに気付いた。

 どうして彼女は気付かないのだろう。
 自分はその願いを裏切るのに。それも最も酷い形で――彼女が一番守りたいはずのものを、リオウ自身が壊すというやり方で。

 彼女の細い肩を掴んで、思い知らせてやりたくなった。
 君がそうやって守りたいと思っている相手は、本当は君の幸福全てをぶち壊すためにここに存在しているのだと。君にそうやって笑顔を向けて貰う価値などない、両手を血に染めた暗殺者なのだと。
「では、リオウ。私はもう行きますね」
 暗い感情を押しとどめるために貼り付けた宮廷楽士の仮面を、王女が穏やかな微笑で見上げる。
「贈り物、受け取ってくれてどうもありがとう。明日から、またよろしくお願いします」
 仮面をかなぐり捨てたい衝動と必死に闘いながら、リオウはどうにか微笑を浮かべ続ける。
「ええ、こちらこそ」
 リオウが優しく頷くと、王女は礼儀正しく一礼して、ゆったりとした足取りで東屋を去っていく。
 その背中が見えなくなると、リオウは途端に微笑を消し、投げやりなため息をついた。大理石のベンチに乱暴に腰掛け、渡されたばかりの短剣を鞘から引き出して眺める。
 なぜこんなにも腹立たしいのだろう。自分では祝う気になれない誕生日を祝われたことがただわずらわしいというだけでなく、こんなにも感情を動かされるのはなぜなのか。
 傷つけるための道具にすら『誰かを守る』という意味を付与してしまう彼女に、生きる世界の違いを見せつけられたからだろうか。
 彼女の住む明るい場所では、鋭い刃すら誰かを守るためのものなのに、そこには暗殺者であるリオウの居場所などない。使い手によって役割を変える剣には居場所があっても、他人を傷つけることしかできない自分には、それがない。
 ――ならば。そう、これは嫉妬だ。
 この苛立ちは嫉妬。自分は嫉妬しているのだ。ただの道具に過ぎない短剣に。そして自分自身に――彼女の世界に居場所を与えられている『礼儀正しい宮廷楽士』に。
 彼女に好意を向けられているのが、偽りの自分であることが許せなかったのだ。
「……馬鹿だな」
 思わず自嘲の笑みが零れる。
 その感情を裏返せば、つまり虚飾のない自分自身に好意を持って欲しいという願いに他ならない。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 叶うはずがないのに。
 半分引き出した短剣の柄と鞘を握りしめて、リオウは瞳を伏せた。
 そんなことを願う資格も権利も、自分にはないのに。わかっている。そんな甘い夢を見ていられるほど子どもじゃない。
 強く握りしめた鞘の上で、指先が血の気を失って白く染まる。
 彼女はリオウの本当の姿を知らない。だからリオウを守りたいと思ってくれるのだろう。
 偽りの自分になど目を向けて欲しくない。本当の自分を好きになって欲しい。けれど本当の自分を知ったら、きっと彼女はリオウを嫌悪する。
 ――どうすればいいかなど、考えることすら愚かしい。
 相反する望みに答えを見出せるはずもなく、リオウは握りしめた短剣を見つめ続けた。
 葉末を通して緑色に染まった春の日差しは優しく東屋に差し込み、刃は柔らかな光を冷たい輝きに変えながら反射する。陽光を浴びて、それでも冷えた光を反射することしかできない月のように。
 その冷たさが陽光に温められ、彼女が願ったように守りの力になる時など来るのだろうかと考えながら、リオウはゆっくりと、剣を鞘に収めた。







← back to title

いわし様のコメント

そしてこの苛立ちがアーデン視察で姫の前に姿を現すイベントに繋がっていったりしたら萌える! という妄想でした。
企画参加ものなのに趣味全開な感じで申し訳ないですが、
ちらっとでも楽しんで頂ければ光栄です。
そしてそして、
このような楽しい企画に参加できてとても嬉しく思っています。
ありがとうございました!
リオウ、誕生日おめでとー!!