「誕生日」とは、「人の生まれた日」「毎年迎える誕生の記念日」の意―――らしい。
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三月六日。
僕の誕生日……ということに一応なっている日であるが、厳密に言えばそれは捨て子だった僕が暗殺を生業とする一族に拾われた日であって、僕がこの世に生を受けた日では、おそらくない。
しかしこの日一人の死神が誕生したことは紛れない事実であり、そういう意味においては誕生日という言葉もあながち誤りではないのかもしれない―――こんなことを彼女の前で口にしようものならば、きっと悲しまれて、怒られるか泣かれるかのどちらかだろうけれど。
なんにせよ、この日は到底「記念日」などと呼べる代物ではないのだろう。
当然この日を誰かに祝ってもらったことなどなかったし、僕自身この日のことは、喜びも悲しみも憎しみも――何の感慨もなく、ただ一つ年齢を重ねていく節目の日としかとらえていなかったのだ。
その他の意味など、何も持たなかった。
――彼女に出逢うまでは。
彼女と出逢い、彼女と同じ時を過ごすようになって、初めて知った。何の意味も持たなかったはずの誕生日とやらが、これほど嬉しいものだということを。
そして今日は、全てを片付けて彼女のもとに戻ってきた僕が初めて迎える三月六日――。
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もう何度苦笑を零したか分からない。エプロンという名の戦闘服を身に纏い、厨房という名の戦場をせわしなく動き回る……と言うよりも右往左往する姫の姿に。
パン、肉料理、副菜、スープ、そしてデザートの焼き菓子。
一般的な家庭料理と呼ぶには質も量もいささか豪勢ではあるが、いわゆる庶民の食卓に上るような素朴な料理の数々を、姫が手ずから披露してくれている。
少し前から僕に内緒で料理を習い始めていたという彼女。
手際と見栄えはあまりよろしくないものの、意外なことに厨房にたちこめている匂いは素晴らしく食欲をそそるもので、おそらく味にはそこそこの成果が現れているであろうことを僕の嗅覚に直截的に訴えかけてくる。
努力家の姫のことだから、ずいぶんと頑張ったのだろう……僕のために。
何より彼女の気持ちが嬉しくて、そしてまた、その奮闘振りに大いに感心させられたのだが……そこに至るまでには調味料を入れ間違えそうになったり鍋を焦がしそうになったり皿を割ったりと、彼女が聞いたら目を三角にして怒りそうだが、ある意味僕の期待を裏切らないハプニングの連続で、僕を大いに笑わせてくれたりもした。
だけど姫が最後の献立である魚料理に取り掛かろうとして、初心者にはいささか使い勝手が悪いと思われる細長い魚用のナイフを手にした瞬間に、そんな呑気な笑いは泡と消え失せる。
あまりにも心許ないナイフの握り方に、それまでの愉快な気持ちの代わりに僕の胸を占めたのは、手に汗を握るような、料理の場にはそぐわない奇妙な緊張感だけとなった。
「ちょっと待って、姫。まずは鱗を取らないと」
「鱗?」
エシューテの漁港で今朝採れたばかりの新鮮な魚。その鮮度を活かして、下味をつけた切り身を葉野菜で包み、特製ソースをつけて生のまま食べる。たしか、そういう献立だったはずだ。
それなのに鱗だらけの生魚を食卓に乗せようとでもいうのか、いきなり魚に刃を振り下ろそうとするから慌てて口を挟めば、姫がきょとんとして僕を見上げ、そして視線を魚へと戻してわずかに頬を染める。
「そうね……そうだったわね」
「刃先を使うんじゃなくてナイフの背で、尾のほうから少しずつこそげ取るようにして鱗を落とすんだよ?」
先手を打って言えば、案の定刃先を向けたまま思案するように魚を見つめていた姫が、慌ててナイフの向きを変える。
分かっているわ、と強がるような、だけどどこか気まずそうな態度が反対に姫が本当は何も分かっていないのだということを如実に物語っていて、僕を失笑させた。
さすがにぶっつけ本番で今回初めて魚をさばこうというわけではない、とは思うのだが、自分で鱗を取るところから始めるのは、もしかしたらこれが初めてなのかもしれない。
『リオウの誕生日に私の手料理を』
そう言って奮闘してくれている姫を眺めているだけで、胸に込み上げてくる幸福感で窒息しそうになるほどだけど……それはそれ、これはこれ、だ。
料理を習い始めて日が浅い今の腕前では、魚を一からさばくのはまだ難易度が高いようで、危なっかしすぎて、見ている僕のほうが気が気でない。
絶対に手を出さないで、と事前に釘を刺されてはいるものの、正直、おとなしく見ていられない。
だから、見られているとやりにくいからと今更ながらに訴えてくる姫を軽くいなして、僕は彼女の横にぴったりと付き従ったまま、彼女が魚に刃を入れるのをハラハラしながら見守り続けていた。
僕の心配をよそに、姫の作業は黙々と進む。
まどろっこしい手付きでようやく魚の鱗を取り除いた後、今度は迷わずに魚の腹を手前に置き、落ち着いた様子で腹に切り込みを入れる。
一応、基本は押さえているようだ。上手だとは言えずとも、思ったよりはきれいな切り目だし、これならば……そう安心しかけたそばから姫の表情が強張り、動きが止まる。
明らかに何かに怯んでいる。
なんだ? と思い、姫と魚を見比べて、納得した。
次にすべき作業は魚の内臓を取り出すこと。それが彼女の動きを躊躇させているのだろう。
彼女は一国の王女であり、自ら料理をすることなどありえない、否、今まではありえなかったはずだ。当然、自分で魚の内臓を取り出すどころかそれを目にする機会もなかったに違いない。
今までどれだけ魚をさばく練習をしてきたのかは定かではないが、姫が内臓の処理に慣れていないことはすぐに察しがついた。
ものはたかだか魚であっても、血生臭い臓物も、臓物を体から引っ張り出すという行為も、姫にとってはおぞましいものでしかないのだろう。
だから。
「僕がやるよ」
そう申し出れば、姫は弾かれたように僕を振り向いて、ムキになってかぶりを振る。そういうつもりはなかったのだが、どうやら僕の一言はかえって彼女を後押しする結果になったらしい。
「いいえ、自分でやるわ」
僕に対してというよりも自分に言い聞かせているかのようにきっぱりと宣言して、姫はナイフを握る手に再び力を篭めるけれど……。
「本当に大丈夫?」
「勿論よ。今まで何度かやったことがあるんだから。それに、手出しは無用と言ったはずよ?」
「口出しはしてもいいよね?」
「それも無用よ、と言いたいところだけど……白状すると、魚を最初から自分でさばくのは初めてなの。だから何かおかしなところがあったら教えてね」
無用、までは強気に言っておきながら、それ以降はがらりと表情を和らげ、素直すぎるほど素直にはにかむから――その綺麗な微笑みにドキリと胸が高鳴り、目を奪われ、一瞬、僕の時が止まる。
僕は今ここで、またもや彼女に恋に落ちたのを実感した。
そう、まるで今初めて彼女という人に出逢い、そして一瞬のうちに心を奪われてしまったかのようなそんな新鮮な気持ちで、今また彼女に恋をする。
――何もかもが美しくて、温かくて、優しくて、そして可愛くて仕方のない彼女に。
一見矛盾しているようだけど、意外と負けん気が強いくせに、おかしなほど素直なのだ、彼女という人は。魂には一切の穢れがなく、完全に澄み切っているのではないかと思わせるほどに。――いや、実際そうなのだろうと思う。
これは単に育ちの良さに起因しているのではなく、本来備わっている彼女自身の気質に違いない。それが何よりも眩しくて、何よりも愛おしく思える。
だから僕は、彼女と顔をあわせるたびに、毎日、それこそ一瞬一瞬、そんな彼女に恋をし続けて、一瞬一瞬、彼女への愛情を募らせて続けている。
これまでに何度、彼女に恋をし、愛を知ったことだろう。
僕は姫の眩しい笑顔に目を細めながら、了解、と頷いた。
「じゃあ頑張って」
「ええ。それでは再開します」
少しおどけたように告げてから姫は真面目な顔になって、わずかに眉を顰めながらもナイフの先で恐る恐る内臓を取り出し、魚の腹を切っていく。
続いて、しっかりと水洗いをしてから今度は斜めにナイフを当て、骨にあたるまで切込みを入れてから今度は魚を裏返して背を手前にし、先ほどと同じようにまたナイフを入れていく。
魚の頭部を切り落とす段階になってまたも一瞬怯みながらも見事にそれを切り落とし、ナイフを寝かせ、腹側から中骨に沿って骨の上を滑らすように動かしていき、それを数回繰り返して背側に達するまで切り開き、身を持ち上げて切り離す。
たどたどしい手付きに途中何度もヒヤヒヤさせられたけれど、なんとか無事に魚を三枚に下ろすことに成功し、僕も、そして姫自身も、ほっと安堵の息を吐いた。
お世辞にも上出来とは言えない見栄えだったが、それでも一応の形にはなっている。
姫もそれに気を良くしたのか、俄然やる気を増したようだ。
しかし。
鼻歌でも歌い出しそうなほど陽気に切り身に下味をつけたと思ったら、今度はそれにかけるソースを作ろうとして、匙を睨みつけるような眼差しで調味料を量ろうとする。それこそ、あらかじめ用意してきた配分表の通りに、一グラムの誤差も許さないと言わんばかりに慎重に。
思わず僕まで姫につられて息を詰めてそれを見守ってしまったくらいだ。
そして、張り詰めた空気の中で行われた計量作業が終われば、姫は途端に表情を緩ませて、今度は大きめの匙で料理鉢の中を軽快なリズムで掻き混ぜるのだ……それはそれは楽しそうな表情で。
その表情のギャップがあまりに可笑しくて、あまりに可愛らしくて。
僕は込み上げてくる笑いをこらえようと何度も努力したけれど、結局それは叶わず、とうとう吹き出してしまうのだった。
さすがに、大笑いは、なんとか免れたけれど。
ああ、でも、無理に笑いをこらえようとしたせいで、腹筋が痛む。
「なぁに? 私、何かおかしなことしたかしら」
「ううん。おかしなことは、してないよ」
可笑しなことはしていたけどね、とは口に出さずにおいた。きっとそれが正しい選択だ。
「じゃあどうして笑うの?」
「ごめん、気にしないで。……フッ、フフッ」
何を笑われているのか納得のいかないという不満顔をして、姫は料理鉢を胸に抱え込んだままぷぅっと頬を膨らませる。
それはどうしても笑いを噛み殺すことが出来ない僕に対するささやかな意思表示なのだろうが、その子どものような仕草がますます可愛くて可笑しくて、そのせいでまた僕の口からは抑えきれない忍び笑いが漏れてしまうのだ。
普段は王女という立場に相応しく凛とした彼女が、時としてこんな幼い拗ね方をするなんて、王宮内のどれほどの人間が知っていることだろう。
完璧な淑女としての美しさ気高さと、少女のような可憐さあどけなさを、違和感なく持ち合わせている彼女。
それを知る数少ない人間がこの僕なのだという事実は僕を優越感に浸らせ、僕をおおいに喜ばせるのだが、肝心の彼女は僕のそんな気持ちを知る由もない。
「もうっ」
いまだに涙目のままの僕に拗ねるようなため息を吐いて、姫は再び調理鉢の中を匙でがしゃがしゃと掻き混ぜ始める。
けれど、今の気持ちを引きずってか荒っぽい動作だったから、鉢の中のソースが跳ねて、それが数滴彼女の頬にかかり、彼女が、きゃっ、と小さい声を上げた。
その時、ふと悪戯心が湧き上がり……
彼女の頬にかかったソースを舌でぺろりと舐め上げれば、姫は先ほどの比ではない大きな声で素っ頓狂な悲鳴を上げて、僕を見上げようとするけれど。
「おいしいよ。姫も味見して?」
と言い置いて、僕は姫の顎に指をかけ、その柔らかそうな唇を塞いだ。
「んん……っ!」
舌先に感じたソースの味を姫にも伝えるべく……というのはまったくの口実で、むしろ僕のほうが彼女の口内を余すところなく味わおうとするかのように、彼女を思う存分貪り続ける。
とっくに消えうせたはずのソースの味を彼女の口の粘膜に拭いつけるように、端から端まで余すところなく舌を走らせ、舐め上げる。
ソースの味を舌から舌へ直接伝えるように互いの舌を絡めてから、今度はそれが彼女の舌に伝わったかどうか確認するかのように小さな舌を吸い上げる。
執拗なまでに口づけは続く。彼女の体から完全に力が抜け切ってもなお、彼女を解放せず……長く、深く、情熱的に。
「は、ぁっ……」
「どう? おいしかったでしょう?」
「そんなの、分かるわけないじゃない……っ」
乱れた熱い吐息。
艶と甘さを増した声。
すっかり上気した頬。
そこに潤みきった瞳で、責めるように、しかしどこか物欲しそうに睨みあげられれば……誘われているとしか思えないではないか。
「仕方ないね、じゃあもう一度。今度はしっかり味わって?」
「……駄目よ。まだ料理が終わってないもの」
ほんの少しの間の後の拒絶。
しかし内容とは裏腹に、その声も僕を押し戻そうとする手も躊躇いがちで、弱々しい。
まんざらでもないくせにそれでも拒否せざるを得ないのは、今までの経験上、彼女も分かっているからだ―――ひとたび僕の情熱に火がついてしまえば、彼女がこのまま料理を続けるどころではなくなってしまうであろうことを。
僕としては少々苦笑いをしたくなるような心地ではあるが……それは的確な読みであると言える。
だけど今日だけは。
「大丈夫、君が心配するようなことにはならないよ。僕だって、出来立ての君の手料理が惜しいからね」
「……本当に?」
「勿論だよ」
――だけど、手料理を頂いた後は、姫を頂いてもいいよね?
熱い息を耳元に吹きかけるように、そう囁けば。
かぁっと耳まで赤く染め上げてから、姫は気恥ずかしさから顔を見られたくないのであろう、その頬を摺り寄せるようにして僕の胸に顔を埋めるけれど――。
確かに小さく頷くことで僕に応えるのだった。
「姫、ちゃんと顔を見せて」
彼女の両頬をそっと包み込み、僕の胸に埋めていた顔を上向かせる。
姫の琥珀色の瞳には僕が。
僕の闇色の瞳には姫が。
今二人の瞳が映すのは、それぞれが想い想われている相手のみ。
今この時だけは、彼女の瞳に僕以外の誰かが映ることがない。
――彼女は僕だけのものだ。
何を子ども染みたことを、と自分でも苦笑したくなるけれど、それが嬉しくてたまらない。今まで知らなかったが、どうやら僕は独占欲の強い男だったらしい。
ひとたび目と目が合えば、あとは互いに引き寄せられるように、どちらからともなく顔を近づけていくだけ。
重なり合う唇。
今度は姫は僕が求めるままに自ら唇を開き、僕を受け入れてくれる。
僕は、この気持ちを伝えたくて、精一杯の愛情を示したくて。
姫は、その気持ちを受け止めようとして、精一杯の愛情を返してくれようとして。
そうすることしか知らない子どものように、僕たちは互いの唇を愛しみ続けるのだ。
本来ならば無償の愛を注いでくれるであろうはずの親にさえ不要とされた僕。
これまで何の罪悪感も疑問も感じることなく数多の命を奪ってきた僕。
大切な人ですら欺き、裏切り、手痛い方法で傷つけた僕。
そんな罪深い僕なのに――、そんな僕が生まれてきたことを、心から祝福してくれる人がいる。
しかもそれはこの世界でたった一人、僕が愛し、そして僕を愛してくれた人で。
これ以上の幸せなど、他にはない。
痛いほどに、それを今、実感している。
枯れ果てることを知らずに湧き上がってくる幸福感に目が眩みそうになりながら、僕は彼女の腰を支える腕にそっと力を込めた。
きっとこれがささやかな幸せなのだろう。
だけどそんなささやかなことが、僕にとっては至福。
僕は日々、こんなささやかな至福に目が眩み続けている。
そしてこれからもきっと、目が眩み続けるのだろう。
――彼女が傍に居続けてくれるから。
<END>