それは全て、そもそも戸籍というものを持たない彼の、順当に王宮に入り込む為に他人から些かばかりかの疑念をも挟まれる余地もないようにとの細心の注意の元に作成された偽りの経歴だった。
尤も喩え経歴を詐称する必要がなかったとしても、彼には自分が本当にこの世に生を受けた日というものを知る術は何もなかったのだが。
自分の生まれた日どころか、両親の顔も、結果的に捨てられるに至ったその経緯すら何も知らないリオウであったが、だからといってその点で生きていく上で何か不自由を感じたことなどもなく、改めて特別な感慨を抱くということも、これまでの彼には別段ないことであった。
リオウがその身を置く『一族』には彼と同様、正確な年齢も国籍も知れない者など珍しくもないどころか、かえってそれが判明している者の方こそが稀少であるくらいだ。
それにもし仮に『一族』に属する者が正確に自分が生まれ出でた日というものを把握していたとしても、彼等がわざわざそれを祝おうことなどはまったくもって有り得ないことである。
しかしそれは何も特別『一族』に限ったことではない。
そのような事柄にいちいち重きを置き、優雅に祝おうなどという慣習があるのは、貴族階級かそれに準ずるほどに裕福な商家くらいのものだろう。
それでも小国ながらも豊かなこのローデンクランツでは、ヒエラルキーの下層部に位置する一般的労働階級の平民の間でも、ささやかながらもそういった祝い事を楽しむくらいの余裕はあるようにも見えるが、それもやはりあくまでも目に見える範囲でだけの話である。
なので当然のようにそういった習慣が身についている彼女という人は、今更考えるまでもなく解りきっていたことではあったが、やはり自分とは住む世界が違い過ぎるのだと、リオウは改めてそう思わされていた。
だが、だからといって、何処か不安そうに、開いた扉の前から動くことなく彼の顔を、様子を伺うように上目遣いで見上げている王女の差し出した白くたおやかな掌の上の、淡い青色の透き通った石が、まるで主の心を反映したかのように所在なさ気に光を反射するのを、ただ呆然と見つめてしまっていたのは、明らかに彼の失態であった。
「エミリオから、貴方についてのことを訊いてしまっていたの」
「……」
「ごめんなさい、勝手に……。やっぱり、そういうことは不躾よね……」
日曜日の昼下がり、控えめに響いたノックの音にそっと自室の扉を開けたリオウに向かって、顔を合わせるなり開口一番に「お誕生日おめでとう、リオウ」と楽しそうに満面に笑みを浮かべていた王女の表情は、今やすっかりと見る影もなく曇りきってしまっている。
約束を交わしていた訳でもないのに突然現れた彼女と、その言葉と、そして同時に自分に向かって差し出された淡青色の石に驚き目を瞠って黙り込んだリオウの様子に、彼女はどうやら彼のその沈黙の意味を誤解して捉えてしまったらしい。
リオウの反応が遅れたのは、彼女が思い込んでいるように彼が自分の関与しないところであれこれと他人に自分のことを詮索されたことを不快に思っている訳ではなく、王女が自分の情報を侍従に求めたということに、そして更にこうして祝いの言葉を告げる為にわざわざ自分の元を訪れたということに、ただ単純に驚いたからに他ならないのだが如何せん、王女はそれを知り得ない。彼女は申し訳なさそうにただ項垂れる。
「貴方と知り合って、話をするようになってからも、まだ日が浅いのに……図々しいわよね、私。困らせてしまって……ごめんなさい」
自分からの好意が受け入れられないことなど有り得ないと当然のように思い込んでいる押し付けがましい貴人が多数を占めるような世において、王女という一際貴い位にいる彼女は、不思議なことにかえってそのような特有の傲慢さを全く持ち合わせてはいなかった。
何時でも誰に対しても、対等な人間同士として対峙しようとする彼女のそういった無意識の態度は、王族の威厳という観点からすれば喜ばしいことばかりでもないのではあろうが、結果としてそれがマクリール王家が広く民から慕われる要因のひとつとなっているのも紛れもない事実だった。
唯でさえ必要以上に美化されることの避けようもない思い出の中の、その幼さゆえにどこまでも無垢な輝きを放っていたとばかり思っていた少女はしかし、美しく成長を遂げた今でも、その愛すべき純真さに全く変わりがなかったことは、喜ぶべきことなのか哀しむべきことなのかは今のリオウには未だ解らなかったが。
だが、沈んでいるのだろうに、リオウに負担を掛けまいと取り繕うように無理矢理にでも笑顔を作ろうとしている王女からは、彼女からの彼への気遣いがひしひしと伝わってくるもので、それは何だかとても温かい心地良いもののようで、彼は戸惑いの中でもその心では、その何とも言い表し難い気持ちの高揚を感じずにはいられなかった。
「……いいえ、違うのですよ、姫。僕はただ驚いてしまっただけなのです」
早く王女の誤解を解かなければならない。
それが解っていながらいつまでもその心地よい気分に浸っていてしまいたくなる心を叱責しながらリオウは優しく王女に微笑みかけた。
言葉を発することによって、何か掴みかけた大切なのに曖昧で形のない儚いものが、すっとすり抜けていってしまうような気がして其処に僅かに名残惜しさを感じつつも、彼には彼女をそのまま哀しむ必要のないことで哀しませておくことなど出来はしない。
それは王宮で彼が演じる『優しくて人当たりの良い宮廷楽士のリオウ』にならば当然の行動ではあったのだが、このときの彼には、折角少しづつ信頼を得ることを成功させていた王女との間に溝を作ることを懸念したというよりも、ただ単純に彼女を哀しませたくないという気持ちの方がより大きかったのは本人の自覚があるのか否かは不明であったが。
「姫が気にされるようなことは何も無いのですよ。少し大袈裟に驚き過ぎましたね。申し訳ありません」
リオウはなるべく穏やかな所作で頭を振り、いつものように柔らかく笑んだ後、王女に誤解を招いてしまった自分の行動の反省を見せるかのように、申し訳なさそうに目を伏せた。
「そんな! リオウ、かえってごめんなさい。……私が突然過ぎたのよ」
そんなリオウの様子に慌ててそう言って決まり悪そうに、だがそれでも何処かほっとしたように彼を見上げて少し恥ずかしそうにはにかむ王女は、いつもの彼女よりも幾分かの幼さを感じさせる。
「わざわざ僕などの誕生日を姫から祝って頂けるなどどは夢にも思いませんでしたもので。折角のお心遣いですのに、やはり僕の方こそ申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」
その言い訳のような口上はしかし、リオウの紛れもない本音であって、微笑ましいほどに人に気遣う王女の様子に表情を穏やかにした彼に安堵したのか、ようやく王女の顔にも最初と同じ笑顔が戻る。
「……それはもしかすると僕の為に、でしょうか?」
渡すタイミングを逃してしまった王女の為に切欠を作ってくれたかのような、差し出されたままになっていた王女の右掌に視線を向けたリオウの言葉を受けて、彼女は今それを思い出したというように瞳を見張った後、直ぐに嬉しそうに微笑みながら彼に尋ね返す。
「リオウは、『誕生石』というものを知っているかしら?」
可愛らしく小首を傾げる王女の言葉に記憶を掘り起こしてみても耳に馴染みのないそれに、リオウは暫しの逡巡の後、結局は困ったように首を傾げた。
「……いいえ。残念ながら存じません」
「リオウにでも知らないことがあるのね、ふふっ。貴方の生まれた三月の『誕生石』はこの淡青色のベリルよ。全ての月毎にそれぞれに『誕生石』は決まっているの。……でも、いろいろと通説が分かれているみたいで、……実は本当のことを言ってしまうと私もあまり詳しくは知らないの」
その輝く美しい青色のベリルによりも、彼の知らないと言ったことを自分が知っていたことが嬉しかったのかそれを得意げに披露したかと思うとすぐに、今度はまるで内緒話をするかのように声を顰めて自分の知識の曖昧さを暴露しながらやはり楽しそうに笑う、子供の様にくるくると忙しく表情を変える王女にこそリオウの視線は惹き付けられてしまっていたことを、熱心に説明を続けている彼女は知らないのであろう。
「……が幸運を呼ぶのですって。だからこの石はきっと貴方の身を危険からも守ってくれるわ」
そんな王女に見惚れるあまり、不覚にも彼女の説明の大半を聴き逃してしまっていたリオウだったが、そつなく相手に会話を合わせることなど彼にとっては雑作もないことだった。
「ふふっ、そうですか。騎士の方々ならいざ知らず、楽士の僕にはそのような危険がそうそうあるとは思えませんが、お気遣いありがとうございます」
本当の自分は常に危険と隣り合わせで生きているというのに白々しいと思いつつも、リオウのその秘密は王女にも誰にも知られてはいないこと。
「そうだけど。でも、誰にでも何時何があるのかなんて解らないでしょう? あら、そんな言い方は何だか不吉ね。……つまり……ようするにお守りなのよ!」
先程のお返しとでもいうようにリオウに言質を取られた形の姫は、彼の如何にもご愛嬌という感じに悪戯に微笑む瞳に、特に優位に立ちたい訳でのないのにどうしても易々とそうさせてはくれないリオウに、本気ではないが少しむくれて、それでもその石の必要性を必死で説こうとしているのがますます微笑ましく写る。
「ええ、そうですね。僕の身を案じてくださるそのお気持ちがとても嬉しいです。有り難く頂戴いたしますよ、姫」
その様子からも王女がリオウのもうひとつの顔について何かを知っているとは思い難いことは安堵の対象である筈なのに、どうしてかリオウはそこに少しの物足りなさを感じてしまう。
王女の掌の上のベリルをそっと指先で摘み上げて、彼が初めて得た純粋に自分の身を案じてくれる人からの好意の結晶ともいうべき石を暫く眺めた後に、リオウは大事そうにそれを懐に仕舞い込んだ。
「受け取って貰えないかもしれないと思ったから、本当に嬉しいわ」
「まさかですよ、姫。僕が貴女からのお気持ちの籠った贈り物を断ることなど有り得ません。有り難うございます。大切にしますよ」
果たして自分がそのような加護を受ける資格があるのか否かはリオウには考えるまでもないことではあるが、ただ彼は王女の気持ちが嬉しかった。その言葉が決して社交辞令などではないということが、きちんと彼女にも伝われば良いと思いながらリオウは、服越しに王女が自分の為に用意してくれたその守り石に触れるようにしてそっと自分の胸に手を添えて少し面映い気持ちを感じながらも偽りではなく心からの笑みを向けた。
「お誕生日おめでとう、リオウ。今年が貴方にとって素晴らしい年となりますように」
本当に自分が生まれた日を知らないリオウの便宜上の誕生日。
だが、まるで自分のことのように嬉しそうに微笑みながら心から祝福してくれる王女をみつめるリオウは、彼女が祝ってくれた今日という日が、誕生日を持たない自分にとって本当の意味での誕生日となったのだとそう思った。
「有り難うございます。ええ、是非そうありたいですね」
貴女が居てくれるのならば、それは本当に、素晴らしいものになるのかもしれない――
「貴方が生まれてきてくれた日に感謝して、もう一度言うわ。お誕生日おめでとう。これからも、カイン共々よろしくね、リオウ」
この世に生まれてきたことを感謝できる日などが、この自分にもはたして来るのだろうか――
その答えはきっと、そう遠くはない未来に訪れる。
Alles Gute zum Geburtstag zu Liou
Es ware vielleicht ein Jahr gut fur Sie!
Es ist ewig unter Gluck...
Ende